ひねもす・のたり
3月下旬、同級生数名で姫路城と書寫山円教寺に行ってきました。
姫路城内・大天守へ入ったのは私は初めてで、天守閣へ上がる木の階段の磨り減り具合が、足の裏(土踏まず)にまだ心地良い感触として残っています。
今更お城の写真をご披露するのも何ですが…誰がどのように撮っても綺麗な白鷺城です。
ご存知の通り姫路城は、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界文化遺産に登録されました。〈1993年(平成5年)12月11日〉
…同級生との会話でも有りましたが、「幾多の戦火を免れて、何でこんなに美しく残ってるのだろう?」と、ちょっと調べてみました。
…まず結論から。一部ネット記事参照。Wikiより
姫路城は「貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかった」と言われることもありますが、城内西の丸に実際に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火されました。
また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことで城郭建築の焼失は免れました。運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったのです。
当時のB-29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に 「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい。」
実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには「外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がない。」と判断したため爆撃しなかったと回顧しています。
…運が明暗を分け現在の世界文化遺産登録に至った訳ですね。
全解体を伴う一連の修理は、戦時中の中断をはさんで、1956年(昭和31年)から1964年(昭和39年)まで行われ、特に大天守の修理を「昭和の大修理」という。
大規模かつ抜本的なものであったことから「昭和の築城」との異名もとります。
世界文化遺産登録を機に、昭和の大修理から50年を経て検討するとの「平成中期保存修理計画」が制定された。その計画が前倒しにされ、2009年(平成21年)から2015年(平成27年)に姫路城大天守保存修理工事が行われたのが「平成の大修理」です。
…私たちが訪れた姫路城が「何故こんなに美しく残されているのか。」の結論をまずお伝えしましたが、
…歴史を紐解いて見ると…複雑で長い。
…中世からは戦乱の世が続き、めまぐるしい歴史の変遷があり、姫路城も同様です。紐解くと大変なので(笑)ザックリと書きます。 …ザックリでも長い。
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府の終焉につながる「元弘の乱」に乗じて赤松則村が縄張りしたのがこの城の始まりとなります。
南北朝の争乱で足利尊氏についた則村の次男赤松貞範が姫山に築城し姫山城とした。
1441年 1458年(長禄2年) 1467年(応仁元年) 1545年(天文14年) 1555年(天文24年) 1561年(永禄4年) 1567年(永禄10年)1568年(永禄11年)と、この間城主・城代は目まぐるしく変わりました。
1573年(天正元年)に黒田孝高(官兵衛・如水)が城代となる。 安土桃山時代 1577年に(天正5年)官兵衛は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。
1580年(天正8年)播磨が平定されると官兵衛は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること。」を進言し姫路城を献上。
秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名しました。
あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。
1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した(中国攻め・鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年)。
1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。
このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動。姫路城には替わって木下家定が入った。
と…ここまでは関ヶ原の戦い以前の変遷でその後…
1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。
輝政は中堀を八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ運河計画をしたが、輝政の死去で未完に終わる。後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人~5千万人であろうと推定されている。
…この頃の大改修で現在の姫路城界隈のおぼろげな輪郭が出来たのではないでしょうか。
ところが1749年(寛延2年)に上野前橋城より酒井氏が入城し藩主家が安定するまで姫路城主は目まぐるしく入れ替わる。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として将軍徳川慶喜とともにあったため、姫路藩も朝敵とされ、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、兵庫津の勤王豪商・北風貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上しこれを食い止めた。
藩主の留守を預かる家老達は開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。
…良かった~
1871年(明治4年)に廃藩置県が実施され陸軍が置かれ大阪鎮台の管轄下になった。さらに1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。
姫路城は競売に付され、城下に住む金物商の神戸清次郎が23円50銭(現在の貨幣価値に換算して約十万円)で落札した。
権利が消失したと思われたその後1927年(昭和2年)その息子である神戸清吉によると「1874年(明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらった」とされている。
城跡は陣地として好適な場所であったことから陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く戦争に翻弄される時代を経てきた。
一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、「日本の城郭を保存しよう」という動きが見られるようになった。この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。
1877年(明治10年)陸軍少佐の飛鳥井雅古が陸軍中将の西郷従道に宛てて「姫路城天守修繕之義ニ付伺」を提出し承認されている。
また1878年(明治11年)、建築・修繕を担当の中村重遠工兵大佐は、陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。
姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。1879年(明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。
だが、肝心の予算はなかなか下りず、腐朽は進む一方であり、1908年(明治41年)には市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて1910年(明治43年)7月10日から
1911年(明治44年)7月15日に「明治の大修理」が行われた。
明治の大修理終了後、大正時代に姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備し、1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた。
1928年(昭和3年)に姫路城は文部省の管理となり史跡に指定された。(実際の管理は姫路市)次いで1931年(昭和6年)1月大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。
…現在では勿論国宝であり、日本初の世界文化遺産として私たちに美しい姿を見せてくれている。
…姫路城の歴史を見直してみると、知らなかった事が多いが、戦乱を含め築城に関わった先人の延べ人数が現在の日本の人口を凌ぐかも知れない事が想像出来、美しく残ってる所以は…その先人が礎なのだ…としっかりと腑に落ちたところです。
かなり省略しましたが、長~す~ぎ~ましたね。
書寫山円教寺は次回にします。
ひねもす・のたり (金曜日, 14 6月 2019 20:19)
パタリロさんご無沙汰してました。ありがとうです。
西条近景Part8の |д゚)チラッ見 から怒涛のコメントを頂きホッとしてます。
昨夏姫路城に行かれたとの事。あのお城は仰る通り別格ですね。
私が行ったのは3月下旬でしたが、桜が蕾をつけてるもののまだ開花前で、
写真を撮ってブログにアップして初めて気付いたのですが、(ひうちさんの
コメントにあったかな) 桜の花に遮られず、石垣や塀を含めた景色が全て
写ったのがかえって良かったかな~など感じましたが、桜満開なら更に良いかも。
所で、与一野の枝垂れ桜にもコメント頂きましたが、記号を駆使した絵が凄い!
時間がかかるだろうなと思いますが、それぞれのページに頂いてるコメント時間
を見ても、さほど時間差が無い。ど~して~?
おじさまには出来ません。
パタリロ (木曜日, 13 6月 2019 20:12)
パタリロも昨年の夏に姫路城に行ってきましたよ。
パタリロはこう見えても城巡りが好きなんですよ( ̄∀ ̄)
やっぱり、姫路城は別格ですね。
パタリロ、将軍になった気分になりましたよ
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― ( ゚д゚ ) ―
.ノ^ yヽ クワッ!!!
/ ヽ,,ノ==l ノ \
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ひねもす・のたり (金曜日, 12 4月 2019 20:58)
ひうちさんこんばんは。
このHPの記事や写真を見ていてくれてる方からの「ハガキ」桜さんの仰る通り
嬉しい話ですね。ほんと励みになります。
すずめさんご無沙汰です。
読み応え有ったでしょ(笑)長すぎて読めんわ(反省)
お矢来すずめ (木曜日, 11 4月 2019 20:51)
なかなか、、読み応えありました。
城に歴史あり・・人に道あり・・。
桜餅 (水曜日, 10 4月 2019 19:35)
ひうち様のコメント、とても嬉しいお話でした。
広島道前会では、皆様の素晴らしい写真、懐かしい思い出話の数々を、一人でも多くの道前会会員(勿論西条、広島縁の方々も)見て頂きたいと考えております。
HPトップを確認いただければわかりますが、今回広島道前会会長さまのご縁で、近畿道前会様のHPのトップにわかりやすいリンクが貼っていただけました。今後もこのような形でリンクを増やしていけたらと思っております。
いつもご覧下さっている方に感謝いたします。
ひねもす・のたり (火曜日, 09 4月 2019 20:47)
はい。同級生と行ってきました。幹事なら誘ったのだが、誘えなくごめん。
続けて「書寫山円教寺」(写真は少ない)をアップしたいところですが、掲載のタイミングはいつでも問題ないので、旬の「桜」の写真(昨日仕事の途中に寄った、多分皆様の知らない所)をまず「散らないうちに…」後ほどアップします。
北海道と東北の7城は是非制覇して下さい。皆応援しています。
ひうち灘 (火曜日, 09 4月 2019 07:42)
のたりさんおはようございます。
同級生と姫路城に行ってたんですね。
桜には少し早い時期のようで、葉っぱの落ちた木々をとおして見る姫路城もまた見応えがありました。
姫路城にそんな話があったとは…全く知りませんでした。
スタンプラリーの身の私として本当に恥ずかしい。
北海道と東北の7城を残すだけとなりましたが、このまま知識もなく百名城制覇しても意味がないですね。ブログに掲載出来るよう少し下調べなどして臨みたいと思います。
ところで私事ですが、先日ある方からはがきをいただきました。
私のつたない写真を懐かしく見ていただいているようで、大変恐縮しております。
末筆ながら、この場を借りてお礼申し上げます。励みになりますありがとうございました。
桜餅 (木曜日, 04 4月 2019 22:59)
今日は。
姫路城、美しいですね。どの角度からみても。詳しい歴史も、ありがとうございます。
姫路城が攻撃されなかった理由、攻撃側の話は初めて聞きました。本当にただの偶然の賜物で、運よく免れたという事がわかります。
住民側も手をこまねいていたわけではないと聞いたことがあります。黒いコールタールをしみこませた藁(姫路城の黒い布といわれてもいます)を白すぎる壁に巻き付けて少しでも目立たないようにしたそうです。ただ、巨大城がそんなもので隠せるわけもないので、のたりさんのご説明のように偶然の産物で攻撃を逃れただけのようです。
お城は本当にロマンを掻き立てます。しょうもない理由で壊されたお城も多くて、勝手ながら実物見てみたかったなと思います。ひうち様の名城巡り、その後着々と巡られているのでしょうか。百名城、続百名城、気になっています。気が向かれたら是非ご報告をお待ちしております。
次回は書寫山円教寺なのですね。読み方からわかりません。初耳のお寺です。
楽しみに待っています。
ひねもす・のたり (木曜日, 04 4月 2019 20:59)
こんばんは。 おっしゃる通り、長すぎて…これは飽きますね。
ちょっとその訳を説明。
日頃ネット検索などをする時はタブレットを利用する場合が多く、姫路城を
「Wikipedia」で検索すると、少し歴史を遡るつもりが、膨大な内容で…。
まず、全てタブレットにコピペ保存して一通り読み、省略、削除、割愛を繰り返して最低限押さえておきたい部分を残して、やっとこの長さ(短さ?)になり申した。
コピペでそのままHPに掲載する事自体盗作に近い行為ですから、お勧めは出来ません。検索エンジンに同じ文章と察知され、HPの独自性がマイナスになります。
ですから省略、削除、割愛をし、前後の文章をを入れ替えたり、「は」を「が」に変えたり「そして」を「また」に変えたりの編集をし、利用させて頂きました。
が、手間と時間ががかかるばかりで、お勧めは出来ません。
昨日迄2~3日寒かったですが、今日の気候は正に「スプリング・ハズ・カム」でしたね。
え?姫 (木曜日, 04 4月 2019 20:09)
こんばんは♪
姫路城up 、お疲れさま(笑)
長い~~~~~~~~~~
姫路城が美しいので許します(笑)
書写山円教寺も期待しています。